2015年07月18日

『素直に生きる100の講義』 森 博嗣 (著) その4



その3の続きです。

p.190
日本という国は、税金で集めた額のほぼ倍の金を使っている。
(中略)
こういう話をすると、「税金の無駄遣いをなくせ」という話になるが、倍ですよ、倍。無駄遣いとか節約どうこうという額ではない。公務員を減らすとか、そういう額では全然ないのだ。
たしかに政府は気が遠くなるほど分不相応な浪費をしていますね。
ですが、どうしてこんなことになったのかを突き詰めていくと、やっぱりありとあらゆる無駄遣いの蓄積なんですよ。その中でも大ボス級の無駄遣いは社会保障費で、年金にしろ、健康保険にしろ、公金を注入する必然性が全く無いものに莫大な金を浪費し続けるという愚策。

p.191
(国民年金や税金の前納割引制度を指して)
そうやって、金を少しでも早く集めようとしているわけだ。
 二年分を前払いで納めさせれば、今年の「売り上げ」が倍になる、という決算をするのである。国債を発行して、予算を倍にするのと同じ理屈だ。さきざきのことを考えたら、全然得ではないのに、今が良ければ良い。政治家はみんなご年配だから、自分が生きているうちは、金が回っていれば、それでやっていける、と考える。将来のことなんか知らないよ、というわけだ。それは、「今の若い者がまた考えろ」ということなのか。
年金や税金の前納分って、ほんとに納付した年の売り上げに計上されているのでしょうかね。もしそうだとしても、全員が一斉に前納しないと倍にはなりませんが…。

「将来のことなんか知らないよ」という政治家の態度は、バラマキをこよなく愛する有権者たちの醜い姿が鏡に映っているだけです。多数派の政治的暴力によって闇に突き落とされた将来世代は、さらに厳しい受難の時代を迎えることでしょう。

 年金などは、明らかに「ねずみ講」である。国がやっていることだし、国民がみんな参加しているし、利回りがそれほどでもないので、破綻するまでに時間がかかった、というだけだ。まあ、破綻したら、また国債を発行すれば良い、と考えているのだろう。
年金はねずみ講に同意。
強制参加なら我慢するしかないですが、参加しなくてもいい状況なら参加しないに限ります。
「破綻したら国債発行」とか呑気に構えている段階ではなくて、既に実質破綻しているし既に借金で回しているのが現状です。

 民主主義というか、資本主義というのか、つまりは、今の社会は、こんなふうに破綻するのかな、というイメージがだいぶ現実的になってきた。ギリシャやイタリアをよく見ておこう。
民主主義はともかく、この文脈で資本主義を持ち出すのは筋違いでしょう。(関連記事: 国家の財政危機は資本主義のせいなのか?

ギリシャの例を見るまでもなく、国債が頻繁にデフォルトしている国はいくらでも存在します。国家の財政って放っておくと自然に破綻に向かうものなんだな、という物理法則が学べます。

歴史に学ぶなら、財政破綻を防ぐためにどうすべきかを必死に考えるのではなく、もし政府が財政破綻したら生きていけなくなる、というような政府依存型の人生設計をしないことが肝要だと思います。

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2015年07月16日

『素直に生きる100の講義』 森 博嗣 (著) その3



その2の続きです。

p.178
よく想像するのは、核爆弾なのか細菌兵器なのか、とにかく世界中の人間が死んでしまって、僕だけがこの世に残されたというシチュエーションだ。粗大ごみ置き場は、僕にそれを連想させる場である。たぶん、そんな世界になっても、僕はきっと楽しく生きていけると思う。もちろん、病気や怪我ですぐに死んでしまうかもしれないし、食料が尽きるかもしれないけれど、それも含めて、かなりわくわくして毎日を生きることになるだろう。
面白いことを空想するものですね。
私はゲームや映画の中の設定なら面白そうだなとは思うものの、現実に自分が地球最後の人類になるなんて状況は、余りにリアリティが無さすぎて想像できません。

p.179
 一人の時間ほど貴重なものはない。この孤独の時間が、すべての価値を生むといえる。あらゆる創作は、ただ一人で黙々と行うものだ。ここに人間としての最上の価値があると僕は考える。その作品を見る他者がたとえ一人もいなくても、自分が見る。それこそ、純粋な創作というものだろう。
概ね同意。
孤独な時間の何が良いかって、何にでも好きなだけ集中できることですね。本を読むにしてもブログを書くにしてもゲームをやるにしても、とにかく捗ります。

当ブログを見る他者がたとえ一人もいなくても、自分が見る!(笑)
実際、当ブログ唯一の目的は、今の自分が何を見て何を考えているのかを未来の自分へ書き遺すことですから、読者は自分一人で構わないわけです。

 孤独は嫌なものだと思っている人が多い。それどころか、悪いもの、恐いもの、異常なものだと見る人もいる。特に、子供や若者は、孤独を必要以上に恐れている。それがどうしてなのか、僕もよくわからない。
(中略)
一人では生きていけない。これは事実だが、それでも、孤独を抱いて生きることは、けっしてそんなに酷い状態ではない。
同感です。
孤独を恐れる感情は、孤独になることが極めて生存に不利だった原始時代に、孤独を恐れる個体のみが生存し子孫を残すことを繰り返した結果、人類の遺伝子に深く刻み込まれたのでしょう。

現代人の脳には他にも色々と原始時代の習性が色濃く残っていて、現代社会を生きるのには最早必要のない恐怖や不安を感じやすいようにできているのです。(関連記事: 『残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法』橘 玲 (著) その1

(つづく)

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2015年07月14日

『素直に生きる100の講義』 森 博嗣 (著) その2



その1の続きです。

p.162
 ブログやツイッターなどで、一般大衆が書いている文章を読むと、そもそも始めから最後までが個人的な意見であって、そのなかで「個人的には」と断って書かれている部分があっても、単なる「ちょっと本音を言えば」くらいの強調でしかない。つまり、「個人的には」の意味を成していない。
これは同感。意味のない前置きだと思うので、私は使わないように気をつけている言葉です。

正直、他人様のブログを読んでいて「個人的には」が出てくるたびに違和感がありました。この言葉が出てくると、それより前に書いてあることは個人的でないと宣言しているようなものだからです。個人ブログに書いてある内容が個人的でない何かであることの方が例外なので、個人的でないことを書き始める場合にのみ断りを入れれば済むと思います。

p.177
 電話はかかっても出ないし、ファックスもない。仕事は、全部断れるものばかりだが、ときどき、これくらいはやっても良いかな、というものだけOKする。疲れるから、仕事は一日に一時間以上しない。仕事関係では人に会わない。だから、自分のためだけに、ほとんどの時間を使うことができる。
 本も沢山読めるようになったし、調べものもゆっくりとできる。なによりも、じっくりと取り組んで、新しいものに挑戦ができる。そう……、これは小学校のときの夏休みなんかに、「毎日がこんなふうだったら良いのにな」と空想した理想の生活だ。
素敵なリタイア生活ですね。
一日一時間以内とは言え、まだ仕事をしているのは意外です。お金はもう要らないはずなのに。
小説を書く仕事はとんでもなく儲かったけど好きじゃなかったそうです(関連記事:『「やりがいのある仕事」という幻想』 森博嗣 (著) その1)から、リタイアしてからやっと好きな仕事が見つかったということかな。

小学校の夏休みの喩え、分かります。毎日全力で遊んでましたからね。時間リッチだった学生時代の楽しい経験が、早期リタイアを渇望する原動力になっていたような気がします。

学生時代の場合、楽しい時間はあっという間に過ぎ去り、宿題や新学期という現実が待ち構えているわけですが、大人になってからのリタイア生活には宿題もない上に、使えるお金は桁違い。学生時代よりずっと幸せなのは間違いありません。

p.177
 時間的な余裕の大切さがわかった。物事をとことん考えることができる。また、余裕があれば、下らないことで腹が立たないのもわかった。
同感です。
時間の余裕はどれだけあっても困りません。その点はお金と同じ。

(つづく)

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2015年07月12日

『素直に生きる100の講義』 森 博嗣 (著) その1



p.035
 お金がないから、体力ないから、才能がないから、時間がないから、などの「できない理由」のうち、切実だなと思うのは、時間がないからという言い訳だけである。時間さえあれば、ほかのものはなんとかなる。そして、生きている人間には、必ず時間はある。
概ね同意。
他のすべてが揃っていても、時間がなければ何もできないですからね。時間の確保が最優先なのは確かです。

ただ、どんなに時間リッチでもどうにもならないものもあって、それは肉体的な限界である体力や思考力、記憶力、視力、聴力などです。老化や病気でそれらの能力が劣化するのもけっこう切実だと思います。肉体的能力がある程度高くないとできないことはいっぱいあって、いつかそれをやりたかったのだけどいつの間にか歳をとってできなくなってしまった、というパターンの後悔は避けたいですね。

p.114-115「43/100 国が悪い、と声を上げるまえに、自分にやれることを少しは考えよう。」
 災難というものは誰にでも降り掛かる。地震も事故も台風も大雨も大雪も、誰かが起こそうと思って企てた悪事ではない。そういう災難に自分が遭遇したとき、なんとか助かったけれど甚大な害を被った。自分は被害者、被災者だ。自分はなにも悪くはない。普通に生活していただけだ。それなのにこんなに損をした。国になんとかしてもらわなくてはならない。援助が必要だ。こんな事態なのに対処が遅れた。予防が不十分だった。これは人災だ。こういうふうに考えていくと、悲しみが怒りに変換される。悲しむよりは怒る方が楽だ。何故なら、責める相手がいるからである。この気持ちは大変よくわかる。
 しかし、まずは、自分になにかできることがなかっただろうか、と少しは考えてもらいたい。「そんなこと考えられるか。まったく予期しない事態だったのだ」と叱られるかもしれないが、宇宙人が攻めてきたというのではない。自然災害はすべて考えられるものだ。事故だって、絶対に起こらないとは絶対にいえない。たいていの場合は「まあ、大丈夫だろう」という解釈を自分がしているのである。
 大雪が降ってビニルハウスが壊れたから、政府が援助するというニュースを聞いて、僕は、「雪が降ったら壊れるものでしょう?」と呟いてしまった。そのつもりで、作ったものではないのか(援助が出ることが歴史的な認識なのかもしれないが)。
 万が一こうなったら、そのときはこうする、というくらいは自分で考えておいてほしい。もし考えていなかったとしたら、まずは、その点を反省してほしい。「人災だ」と怒るのはそのあとにしてほしい。つまり、「信じた私にも責任の一端はあるけれど」という言葉をまず発してもらいたい。「助けてもらって当然だ」では困るということである。
(中略)
 自分を責める気持ちがなければ、またいずれ同じ災難に遭うだろう。避けられるものをまずは自分の知恵で避けていく、という気持ちが大事なのではないか。
引用が長くなりましたが、本来は全文引用したいくらいに、この2ページに書いてあることに共感しました。

自然災害なら誰の責任でもないはずです。しかし、何が何でも誰かの責任にしないと気が済まない人々(主にマスメディア関係者)が少なくないように思います。たとえば昨年の御嶽山の事故でも、噴火をまったく予知できなかった火山噴火予知連絡会の責任を問うような報道が見られました。

「まあ、大丈夫だろう」という判断でリスクを引き受けたのは自分自身であって他者ではない以上、いかなる結果が生じても他者のせいにしてはいけないでしょう。(関連記事: ファウルボールによる事故は自己責任

どうしても避けたいリスクなら保険をかけるなど自分でコストを払ってヘッジすべきだし、登山のように楽しみとリスクが背中合わせのものは、リスクを受け入れて楽しむか、楽しみを放棄してリスクを避けるかの二択になります。

(つづく)

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2015年07月01日

国家の財政危機は資本主義のせいなのか?

貧BPさんのブログより。
ギリシャ金融危機に関して | 貧BPの人生オワタ\(^o^)/旅
資本主義の矛盾のしわ寄せを一気に押し付けられ、庶民としてはまさに迷惑千万の事態と言ってよいでしょう。
ギリシャ政府の財政危機の話に、初っ端から「資本主義の矛盾」という言葉が出てきたので驚きました。このあとも、ギリシャ問題とは一見して無関係と思われるリーマンショック等の事例を引き合いに出したりして、資本主義への恨みつらみが述べられています。

ギリシャが財政破綻の危機に瀕しているのは、ギリシャ政府が財政規律を守らず、赤字国債を乱発して身の丈に合わない歳出拡大を続けてきたことが原因です。仮にギリシャ経済が資本主義ではなく共産主義だったとしても、政府があのような放漫財政を続ければ財政破綻は必至。この極めてシンプルな因果関係をスルーして唐突に資本主義のせいにするのは無理があると思います。

逆に、資本主義は間違っているから政府の介入が必要だと思い込んでいる人々の方こそ、財政危機に加担する側にいるのが現実ではないかと。
なぜなら、彼らは自分らの都合で大きな政府や公営社会保障というモンスターを召喚しておきながら、そのモンスターを維持するためのエサ代を自分ではろくに払おうとしないからです。どこまでも虫の良い国民の要求が、赤字国債乱発を民主的に正当化してしまうのです。

この受益と負担のアンバランスによって赤字国債が積み上がっていく構造は、明らかな民主主義の欠陥と言っていいでしょう。特例公債法みたいな悪法は即刻廃止すべきですね。

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